アフガニスタンに関係の深い日本人と言われれば、まず最初に出てくるのが、2019年12月4日にアフガニスタンで糾弾に倒れた「中村哲(なかむら・てつ)」医師ではないでしょうか。
中村医師は、九州大学医学部を卒業後、国内病院勤務を経て、1984年、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任したことが、パキスタンやアフガニスタンにおけるハンセン病を中心とする医療活動に従事するきっかけとなりました。
中村医師の現地での活動を支えようと設立されたペシャワール会とともに、同医師は1987年から難民救済のため、アフガニスタンで巡回診療を開始し、無医地区に診療所を開設しました。現地スタッフを養成しながら医療活動を続け、最大11カ所の診療所と病院を運営。医者のいないアフガン山岳地帯の診療体制を支え続けました。
その一方で、飢餓や感染症に苦しむアフガニスタン国民を見ながら、医療環境の改善だけでは解決できないと考えた同医師は、アフガニスタン国民の病気を誘発する原因となっている飲料水や食糧不足の状況を変えていく必要性を強く実感します。
十分な水と食糧があれば、アフガニスタン国民が苦しんでいる多くの病気にさえかかることがないと考えた中村医師は、自ら重機を運転し、井戸や用水路を掘り、病気にかかりやすい環境自体を変えていくことに大半の時間を費やします。
2000年夏には、大干ばつで疲弊したアフガンの大地に命の水をよみがえらせようと約1600本の井戸を復旧、掘削。その3年後には、灌漑(かんがい)用水路建設に着手するなど、これまでに造った用水路や給排水路は計100キロ以上に及びます。
かつての砂漠を緑の農地に生み変えた後も、中村医師は年間の3分の2はアフガニスタンに留まり、現場監督として作業員を指揮するだけでなく、自ら重機に乗り込み、灌漑用水路の拡張工事や取水口の修復などに明け暮れました。
テロリストの糾弾に倒れる約2ヵ月前に、アフガンのガニ大統領から直接、名誉市民権(市民証)を授与された中村医師は、用水路の設置地域をさらに隣接州に拡大する方針も示していました。
同医師が糾弾に倒れた3日後の12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われたのち、遺体は空路で日本に搬送されました。追悼式典では、アシュラフ・ガニー大統領自らが棺を担いでいます。
中村哲医師の母校である九州大学は、2021年3月、「中村哲先生の志を次世代に継承する九大プロジェクト」の一環として、中央図書館内にグラフィックと映像を中心とした展⽰スペース「中村哲医師メモリアルアーカイブ」を新設。同医師が⽣前に書き著し・遺された⾔葉を収集・蓄積する「中村哲著述アーカイブ」をインターネット公開しています。さらに、2021年度の夏学期より全学部の学生を対象とした授業科目「中村哲記念講座~中村哲先生の想いを繋ぐ~」を開講しています。
(中村哲医師の言葉) 誰もが押し寄せる所なら誰かが行く。 誰も行かない所でこそ、我々は必要とされる。
<関連の深い場所やサイト> 中村哲医師メモリアルアーカイブ 中村哲著述アーカイブ(九州大学附属図書館) ペシャワール会 中村哲医師特別サイト(西日本新聞)