黒田官兵衛により「福岡」と名づけられ、息子の黒田長政を藩祖とし250年間にわたり福岡黒田藩の歴史が続きました。その福岡黒田藩が育てた多くの人財の中で、幕末・明治期における最大の人物とされるのが、金子堅太郎(1853~1942、文中では以下、金子)です。
金子の父親は武士の身分でありながらも、本人一代限りの身分であったため、金子が家督を相続するも、武士の身分がはく奪された立場から出発するという逆境からの出発と言えるものでした。しかしながら、福岡藩の藩校「修猷館」に入ることができた金子は、成績優秀者へと駆け上がり、一代限りで終わらない「永代士分」の身分を獲得します。
さらに、1871年(明治4年)、第12代福岡黒田藩主であり初代知藩事を務めた黒田長知の随行員となり、団琢磨らとともに岩倉使節団に同行。アメリカではまずボストンの小学校に入り、英語を叩き込むという徹底ぶりで、進学した中学校を中途退学し、ハーバード大学のロースクールに入学します。
ハーバード大学在学中に大学のOBであり、後にアメリカ大統領となる「セオドア・ルーズベルト」と面識を得たことも、その後の金子の活躍につながっていきます。
金子はその生涯を通し、日本に影響を及ぼす多くの活躍をしましたが、中でも、金子の存在を国内外に知らしめたのが、日露戦争開戦時のアメリカ世論に対する啓蒙活動と、終戦後の「ポーツマス条約」締結への貢献です。
金子は、当時の伊藤博文枢密院議長の説得を受けて渡米し、ルーズベルト大統領に常に接触することが可能だっただけでなく、白人の国であるロシアに同情的だったアメリカの世論を転換させるべく、全米各地で講演を行い、アメリカ世論を日本に好感を持たせることに成功しています。
そのほかにも、井上毅、伊東巳代治らとともに明治憲法の草案を作り、さらに伊藤博文内閣で農商務大臣や法務大臣を歴任、枢密顧問官などを務めています。
その一方で、金子自身が学問によって身を立てた経験や、黒田藩の恩賜によって今の自分自身があるという思いを忘れることはありませんでした。そのため、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長に就任したり、九州大学の福岡への誘致、藩校・修猷館の公立高校としての再興にも力を注ぎました。
近代における福岡の骨格を築いたのが、金子であったと言っても過言ではないほどです。また、金子が残した著作の1つに「黒田如水伝」があります。
日本近代化に貢献した1人として名を残す金子堅太郎。アメリカの世論を覆すほどの英語力・外交力の持ち主の真の魅力は、黒田藩や福岡への忠誠心や愛情なのかもしれません。
(金子堅太郎の言葉) 余はこのごとく、貴家(黒田家)の殊遇に浴せしものなれば、報恩の念もまた切にして夢床にも貴家を忘るる能わず。 (~『黒田如水伝』(金子堅太郎著)より~)
<関連する場所> 埴安神社(=はにやすじんじゃ、福岡市中央区鳥飼) 修猷館高校 九州帝国大学(=現・九州大学箱崎キャンパス)
<特集ページ ~濃い時間シリーズ~> 福岡ならではの、金子堅太郎との“濃い”時間をつくる。