学校の教科書にはあまり載っていない名前でありながら、江戸時代以降の日本の“知的素養”を高めることに最も貢献した1人の人物がいます。福岡藩士として70歳まで黒田藩に仕え、主にはその後、現在も読まれている『養生訓』をはじめ、生涯で60部270余巻の書物を残した「貝原益軒」(かいばら・えきけん)です。
1648(慶安元)年、現在の福岡県にあたる筑前国で生まれた益軒は、幼い頃から大変な読書家で、神童と言われるほど頭が良かったと伝えられています。その後、18歳で福岡藩(黒田藩)に仕えましたが、第2代藩主・黒田忠之に諫言したことをきっかけに、藩主の怒りを買い、6年間にわたり職位がはく奪されるという経験をし、不遇の時期を過ごすことになります。
そこで益軒は、その余った時間を医学などの勉強に充てますが、結局はその“充電時間”が、益軒のとくに「70代以降の人生」に生かされていくことになります。
福岡藩士として勤務していた時代、つまり、“定年前の益軒”は、3代藩主・光之に命じられて黒田家の歴史をまとめた『黒田家譜』を記しています。そのほか、福岡藩内をくまなく歩き回ってまとめた『筑前国続風土記』は、益軒のライフワークにもなり、73歳で完成した後もたびたび改訂を加えています。
一方、藩主に請われて、当時の引退の基準からしてもかなり長い70歳まで“役所勤め”をした益軒でしたが、引退後に、ベストセラーとなった『養生訓』をはじめ、多くの著作を残しています。
当時の学問書の多くは難しい漢文で書かれていましたが、益軒の著作は庶民にも分かりやすい平易な和文で書かれていたため、多くの人に読まれるようになったのです。
長崎に来日したシーボルトは、益軒を「日本のアリストテレス」と評しています。
益軒が日本国民にもたらしたさまざまな分野の基礎知識は、明治期以降、日本が急速に近代化・西洋化していく中でも、日本人にとって重要な基礎知識となっていきますが、派手できらびやかな知識や学問ではないため、「貝原益軒」が学校の教科書などで取り上げられることはこれまでほとんどありませんでした。
インターネットやSNSで情報が溢れ、“情報過多”と言われる昨今。自分自身で事実や情報の信憑性をていねいに確認しながら、情報を集約し、万民の利益となるよう86歳で生涯を終えるまで著書を残し続けた『知の巨匠』の言葉は、今後さらに重みを増すことになりそうです。
(貝原益軒の言葉) 養生の術は、まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものである。心を静かにして落ちつけ、怒りをおさえて欲を少なくし、いつも楽しんで心配をしない。これが養生の術であって、心を守る道でもある。心法を守らなければ養生の術は行われない。それゆえに、心を養い身体を養う工夫は別なことではなく、一つの術である。 (「養生訓」より)
<関連する場所> 貝原益軒像(金龍寺、福岡市中央区) 貝原益軒・屋敷跡(福岡市中央区) 益軒観(天橋立展望所:京都府宮津市)