母国である「中国」、そして、“終(つい)の棲家(すみか)”のような場所として選んだ「日本」。
このどちらの国からも最高位の僧人として今なお崇め続けられている人物は、「鑑真(がんじん)」以外には見当たらないでしょう。
鑑真は、中国の揚州で生まれ、14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、713年に故郷に戻った後、有名な高僧となり、大明寺などで4万人に授戒(=仏教徒としての戒律を授ける儀式)を行ったとされています。
一方、形骸化している日本の仏教を憂いていた聖武天皇は、中国の高僧を日本に招き入れ、日本を刷新したいと考えていました。
天皇の詔(みことのり)を受け、742(天宝元)年、第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧であった栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が、鑑真に渡日を懇願します。鑑真はすでに54歳という年齢であり、当時は生命の危険が伴う“日本行き”を了承するのは簡単ではなかったはずですが、その招請を受け入れます。
しかしながら、5回にわたり日本への渡航を試みるも、途中で船が座礁するなど、ことごとく失敗します。また、5度目の渡航の際に、南方の気候や疲労により、両目の視力をほぼ失います。
753(天平勝宝5)年、6度目の渡航でついに日本に到着することができました。その時の年齢はすでに65歳でした。当時の平均寿命や現在の健康年齢を考慮すると、現在なら80歳前後にあたる年齢だったと言えるでしょう。
鑑真は到着した鹿児島から、まずは福岡の太宰府へと上がり、観世音寺で戒壇院(かいだんいん)を開き、日本で初めて授戒を行います。
その翌年、奈良の平城京に上がり、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立および授戒について全面的に一任され、東大寺を拠点として生活します。
同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400人に菩薩戒を授けています。また、常設の「東大寺戒壇院」を建立。さらに、761(天平宝字5)年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、福岡県の「大宰府観世音寺戒壇院」と栃木県の「下野国薬師寺戒壇院」を建立し、これらの“天下之三戒壇”とともに、日本の『戒律制度』は急速に整備されていきました。
鑑真がもたらした、仏教における『戒律』とは、仏教の僧侶や信徒が守るべき道徳的規範(=戒)と生活規則(=律)のことです。中でも、仏教の僧侶に対しては、明確な基準が定められていました。
鑑真の戒律の教えと彼が中国から持って来た仏教の書物は、後に唐への留学を決意し、帰国後、平安仏教を先導した空海や最澄に直接影響を与えています。
さらに、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて、日本仏教を大きく刷新し、現在の日本文化に直接影響を及ぼしている、法然、親鸞、日蓮らにも色濃く影響を与えています。
それぞれの国の文化を形づくる役割を担うとされる「宗教」。とりわけ日本では「仏教」が大きく日本文化に影響及ぼしています。
福岡には、日本文化と切り離すことができない「日本仏教」を形づくった鑑真の足跡や日本への思い入れが多く残されています。
(鑑真の言葉)
弟子たちが誰も日本に行きたがらない姿を見て...
「何ぞ身命(しんみょう)を惜しまんや 諸人(もろびと)行かざれば 我 即ち去(ゆ)くのみ」
~井上靖「天平の甍」より~
<関連する場所>
太宰府観世音寺
東大寺
唐招提寺
大明寺(公式サイト、中華人民共和国)



