正式な名を黒田孝高(くろだ よしたか)といい、大河ドラマ「軍師 官兵衛」でさらに日本国中に知られるところとなった黒田官兵衛は、実は「福岡」という地名の名付け親でもあります。福岡や九州では、黒田如水(くろだ じょすい)の名でも知られています。
多くの人たちがすでに知っているように、軍師・黒田官兵衛は織田信長や豊臣秀吉を支え、秀吉をして「天下人の器がある」と言わしめた人物です。また、織田信長が1582年の本能寺の変で倒れたことを知り、豊臣秀吉をその後継者にするために圧倒的な活躍を見せ、信長が築いた天下統一の流れを、いち早く秀吉のもとにたぐり寄せた立役者でした。
そのように、官兵衛の歴史の流れを見抜く“千里眼”は卓越しており、秀吉以後の流れが徳川家康にあると見抜くと、九州の多くの大名が石田三成側に就こうとする流れに同調せず、かえって、関ケ原の戦い(1600年)で手薄になった三成側の大名たちの城を攻め落とし、九州をまとめ上げる“速攻”を見せつけました。
この戦い方には、いろんな解釈がありますが、関ケ原の戦いが長引けば、さらに中国地方を攻め落とし、天下を取りに行く布石にすることができ、仮にそれができなくても、九州の石田三成勢力を叩き潰したという“実績”を家康に示すことができるという、官兵衛の類まれな計算があったとも言われています。その官兵衛は、その影響力ゆえに、徳川家康らからも一目置かれる存在であり続け、59歳でその生涯を終えています。
それほどの力を備えた黒田官兵衛と息子・長政から始まり、300年の歴史を持つ「黒田藩」は、やはり色濃く福岡の歴史に影響を与えています。そして、黒田藩の「末期」にも見ごたえのある歴史が詰まっており、実は「九州大学の出発」とも交差しています。
勝海舟をして最も優れた藩主と言わしめた、第11代藩主「黒田長溥」が最も強く意識したのが、人材育成でした。まずは藩校として「修猷館」をつくり、その後、修猷館の中に、西洋の医育機関「賛生館」を設置。さらにその賛生館の附属病院として診療所を開設させたことが、現在の「九州大学病院」の出発点になっています。
なお、藩主・黒田長溥は当時、次世代のリーダーになることを期待されていた、修猷館で学んでいた若者を米国のハーバード大に留学させています。その一人、「金子堅太郎」は、ハーバード大の学友だったセオドア・ルーズベルト大統領を動かし、日露戦争の講和締結に貢献し、旧憲法の草案作成にも関わりました。
その後も、金子は、伊藤博文内閣で農商務相、司法相、その後も枢密顧問官を務めるなど、政界に影響を及ぼし続けています。また、その金子が地元・福岡のために力を注いだのが、「九州帝国大学の誘致」でした。実際、歴史的な評価では、当時の政界の実力者であった金子がいなければ、九州大学が福岡に誘致される可能性は低かったと言われています。実際、当時の九州は、九州の行政機関が集まり、九州の最高学府の「第五高等学校」もあった『熊本』が、九州帝国大学誘致の最有力候補地と言われていました。
金子堅太郎は、「黒田藩がなければこれまでの自分の人生はなかった」として、黒田藩への感謝の思いを表すために、『黒田如水伝』を執筆したことは有名です。
そのように、現在の福岡は、私たちも気づかないほど、黒田官兵衛から始まる黒田藩が耕した土壌に実った“多様な恩恵”を受け続けているのかもしれません。
(黒田官兵衛の言葉) 洋々として大洋を充たし 発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう) たる鏡となりたえるも 其(その)性を失はざるは水なり (黒田官兵衛「水五訓」より)
<関連する場所> 福岡城跡 福岡市博物館 九州大学病院 修猷館高校 中津城(大分県中津市)