1922(大正11)年、当時、ベルリン大学の教授だったアインシュタインが、福岡にある「九州帝国大学」を訪問したのは有名な話です。
現在は書店経営で知られる「改造社」が出版社であった頃、同社の招きによって日本訪問が実現したアインシュタインは、慶應大学、東京帝国大学、東北帝国大学など、日本の有力大学を訪問し講演を行いました。その日本訪問の中で、アインシュタインが最後に訪問する大学に選んだのが、「九州帝国大学」(=現在の箱崎キャンパスなど)でした。
アインシュタインは、九州帝国大学を訪問するにあたり、当時の真野文二総長や他の教官との午餐会に出席し、医学部、農学部、工学部を見学しています。なお、医学部では、日本住血吸虫の研究、農学部では蚕の遺伝研究を視察したとの記録が残されています。
ここで不思議に思う人もいるかもしれませんが、物理学者であるアインシュタインを九州帝国大学が迎えたにもかかわらず、「理学部」を案内したという記録がないことです。
すでにピンと来た人もいるかもしれませんが、アインシュタイン訪問当時の同大にはまだ理学部がなく、実際に正式に理学部がスタートしたのは、1939年になってからのことです。東京大学や京都大学の理学部スタートに比べると、半世紀以上もの開きがあることになります。
実は、アインシュタインの九州帝国大学訪問を実現させた有名なエピソードがあります。1922年に改造社の招きで、日本に向かう船に乗っていたアインシュタイン夫妻でしたが、その船の中で、アインシュタインが高熱と下痢に悩まされていました。その船に偶然、同乗していたのが、九州帝国大学医学部の外科学教授であり、日本外科学会会長で国際外科学会役員なども務めていた「三宅 速(みやけ・はやり)」でした。日本で最初に脳腫瘍手術を成功させた人物としても知られています。
ドイツ語と英語に堪能であった三宅教授は、アインシュタインを感染症と診断し、薬と治療で完治させました。
ところで、三宅教授はなぜアインシュタインと同じ船に同乗していたのでしょうか? 同教授は国際外科学会でも役員を務めるほど世界的にも認められる外科医でしたが、第1次世界大戦のあと、「国際外科学会」は大戦勃発の原因となった敵国であり敗戦国のドイツとオーストリアを学会から締め出す決定を下しました。三宅教授は国籍で外科医をしめだすというのはおかしいと主張し、反対の署名集めに奔走。アメリカやヨーロッパを訪問して多くの署名を集めたといいます。
その結果、世界的に著名な医学者の賛同署名が集まり、国際外科学会を動かしたそうです。こうした国際活動の帰り道に乗船した北野丸に偶然、アインシュタイン夫妻が同乗していました。
本来は、日本訪問の際のスケジュールに九州帝国大学訪問を入れていなかったアインシュタインは、三宅教授と深く交流するために同大への訪問をスケジュールに加えたと伝えられています。
その後も、三宅教授とアインシュタインの交流は続きましたが、同教授は1945年、岡山の防空壕に避難していた時に、米軍の空襲に遭い、夫人とともに帰らぬ人となりました。
三宅教授の故郷である徳島県美馬市には、三宅夫妻の死を悼み、アインシュタインが贈ったドイツ語による哀悼文が碑に刻まれています。
(三宅速に関する言葉) ここには三宅博士とみほ夫人が眠っている。2人はともに人の世のしあわせのために働き、そして世の恐ろしい迷いの犠牲となってともに亡くなった。 (三宅夫妻の墓に刻まれている「アインシュタインからの哀悼文」の日本語訳より)