出光佐三(いでみつ・さぞう)は、1885(明治18)年、福岡県宗像郡赤間村(現宗像市赤間)で、藍問屋を営む両親のもとに生まれ、幼少期から病と闘いながら成長しました。
1909(明治42)年、 神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)を卒業した佐三は、当時貿易商として躍進し始めた鈴木商店の入社試験を受けました。同期の友人らには早々と合格通知が届いたのに、佐三には通知が来ず、そこでやむなく酒井商会という小麦粉や石油・機械油を取り扱う従業員わずか3人の零細商店に丁稚として入りました。
一方、鈴木商店からの採用の知らせは、酒井商会入りが決まった後に届くという運命のめぐり合わせを経験します。しかし、佐三が酒井商会入りを変えることはありませんでした。
また、佐三はもう一つ、人生の中で大きな出会いを経験します。1911(明治44)年、資産家である日田重太郎の息子の家庭教師を務めていた縁から、日田から資金6,000円(※現在の価値で8000万円程度)を渡され、「働く者を家族だと思い、良好な関係を築き上げなさい。自分の考えを決して曲げず貫徹しなさい。そして私が金を出したことは他言するな」との言葉とともに起業を促され、満25歳で独立。福岡県門司市(現・北九州市門司区)に「出光商会」を設立しました。その後も佐三は生涯、日田との約束を守り続けます。
出光商会は、銀行からの融資打ち切りによる倒産危機など、数々の苦難を経ながらも、“海賊”と呼ばれた、当時としては画期的な営業戦略などで実績を積み、機械油の輸入・販売で成功します。さらに、1940(昭和15)年、「出光興産」として新たに改組設立し、以来、石油の精製販売で民族資本による元売り大手として発展していきます。
また佐三は、日本の真の発展のためなら、既存の制約にとらわれない、柔軟で大胆な行動力が必要であると信じており、その象徴的な事件が1953(昭和28)年3月に起き、日本を騒然とさせます。
出光興産は、石油を国有化し英国と抗争中のイランへ「日章丸(第二世)」を極秘裏に差し向けました。同船は、ガソリン、軽油約2万2千キロℓを満載し、同年5月、川崎港に帰港します。
これに対し、英国アングロ・イラニアン社は積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴。これがいわゆる「日章丸事件」と言われる事件で、法廷で争われることになりました。裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられ、結局、アングロ・イラニアン社が提訴を取り下げたため、出光側の勝利となりました。
この事件は、産油国の尊厳に配慮し、産油国との直接取引の先駆けとして、日本人の目を中東に向けさせるきっかけになり、さらには、敗戦で自信を喪失していた当時の日本で、欧米に一矢報いた“快挙”として受け止められた事件になりました。
出光佐三のDNAを受け継ぐ出光グループは、商品の研究・開発面でも柔軟で大胆な試みを続けており、九州大学と共同研究を行うなど、産学連携も盛んに行っています。
なお、佐三は、生まれ故郷の神様である宗像大社への信仰心に厚く、生涯最後の仕事として「宗像神社再建」に取り組み、世界遺産登録の礎を築きました。

