福岡の魅力と歴史 ~官兵衛以前の福岡~

古代の福岡

私たちが『魏志倭人伝』という言い方をしている、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻には、「東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」という記述があります。

その意味は、「東南へ陸を500里行くと、伊都国に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ、せもこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ、へくこ)という。1000余戸の家がある。代々の王が居た。みな女王国に従属している。郡の使者が往来して、足を止める所である」となります。

もちろん、これだけを見て、「伊都国=邪馬台国」であると言い切ることはできませんが、日本の“国家”としての出発に影響を与えた重要な地域であったことは間違いないようです。

事実、日本最古の『絹』が出土した有田遺跡を筆頭に、福岡市だけでも6つの遺跡から絹が出土しており、うち4つは糸島市と福岡市の境にある日向峠付近にあります。いずれも弥生時代のもので、本州、四国、南九州からは一切出土しておらず、本州の大和(奈良)や出雲(島根)からは、その後の古墳時代になってから出土しています。

こうした事実が、邪馬台国=北部九州、という説の根拠にもなっています。

伊都国王の墳墓とされ、日本一の大鏡と39枚の鏡等が出土した平原遺跡など、現在の九州大学「伊都キャンパス」周辺には、こうした日本の起源につながる多くの資料が散りばめられています。

古代から中世にかけ、福岡は、中国などアジアの国々の玄関のような役割を担ってきました。

6世紀頃には、「奴」は「那の津」と呼び名を変え、大和朝廷の外港に位置づけられています。

「博多」の呼び名が初めて登場するのは「続日本紀」。当時の博多は九州統一や外国との交流窓口として重要な役割を果たしていました。

中世の福岡

8世紀頃には博多から遣隋・遣唐使が船出をし、海外からも人が訪れ書物や薬などが運ばれてきました。

9世紀から11世紀には、現在の福岡城跡に再現された外国人接待用の客館「鴻臚館(こうろかん)」が海外との交流拠点となりました。

11世紀の終わりごろから、博多にはのちに「大唐街(だいとうがい)」とよばれる中国人街が形成されました。当時の対外貿易・交渉の窓口であった博多には、この太い貿易上のパイプを通じて、中国文化がたくさん入ってきました。現在もその名残として、「唐人町」などの地名が残されています。

12世紀頃には平氏が博多に進出し、博多はわが国を代表する対宋貿易の拠点として繁栄しました。

12世紀から13世紀にかけて、初めてお茶やまんじゅうが博多に伝来。うどんを伝えたのも、この頃宋から博多に帰ってきた聖一国師という僧です。

その一方で、元が襲来した「元寇」(1274年、1281年)により、福岡や博多の町は被害を被りました。元の襲来に備え、当時の鎌倉幕府が築いた元寇防塁が今なお多く残っており、歴史の事実を物語っています。元寇によって商船の往来は一時途絶えましたが、その後、和交し日元貿易として再び復活します。

室町時代に入ると交通や経済が発展し、戦国時代には戦を契機に商工業が発展。明などとの貿易も盛んになります。

㊤写真=伊都国王の墳墓と見られている「平原古墳」
㊦写真=文永の役(1274年)の後に築かれた「元寇防塁」(=福岡市西区・生の松原地区)

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