東アジアを代表する「福岡市」など
福岡の大きな魅力の1つは、九州という島のほぼ最北端に位置し、朝鮮半島や中国大陸、台湾などとも近く、東アジアを代表する都市「福岡市(Fukuoka City)」を有していることです。
福岡市は、日本で最も住みやすい都市ランキングでは常に上位に位置し、在留外国人の増加率も全国21大都市で1位を記録し続けるなど、日本人だけでなく、外国人にも選ばれる都市でもあります。
福岡市には、「天神(Tenjin)」をはじめ、「西新(Nishijin)」「百道(Momochi)」など、魅力的な地域があり、商業的であり、アジア関連の店も多く開放的で、起業家らが多く集まるなど先進的な魅力を放っています。
また、福岡市から福岡県へと視野を広げてみると、「北九州市(Kitakyushu City)」や「久留米市(Kurume City)」など、福岡市とは違った魅力や文化を発信している都市もあります。
さらには、福岡には、魏志倭人伝に登場する「伊都国」に関連すると言われている遺跡が多く存在します。また、漢の皇帝が委奴国王に与えた印として「漢委奴国王」の文字が刻まれた金印が志賀島で発見されるなど、日本の出発に関わる多くの歴史や、それを証明する遺跡や遺物などが存在します。
官兵衛の前と、官兵衛の後
一方、「福岡(Fukuoka)」の名前の由来を見ると、黒田藩の藩祖・黒田官兵衛(黒田孝高・黒田如水)により名付けられたとされています。
織田信長が一目置き、豊臣秀吉の参謀であり続けた“軍師・官兵衛”は、その後、天下人となった秀吉でさえ裏切られることを恐れ、それゆえに、秀吉の九州平定後、黒田家に九州の中津という離れた地を与えたという説もあるほどです。
その官兵衛にとって、天下人となる千載一遇のチャンスでもあったのが、「関ヶ原の戦い」でした。仮に、この関ヶ原の戦いが長引けば、九州の大部分をまたたく間に制圧し、中国地方も支配下に置くことを想定していた“官兵衛軍”が、そのまま攻め上がり、天下を治めることも視野に入れていたのではないかと言われています。
なお、加藤清正らの協力のもと、九州の大部分を制圧した官兵衛でしたが、徳川家康率いる東軍が短時間で勝利を治めたことと、官兵衛の息子・長政がその関ヶ原の戦いの勝利に大いに貢献したことから、結果として、家康にさらに信頼されるようになります。そうして、長政を初代福岡藩主として、約270年間にわたり、福岡における黒田藩の歴史が続いていきます。また、その黒田藩の藩校「修猷館」からは、明治期を支える人財たちが育っていきました。
そのように、現在の福岡の礎を築いたのが、黒田官兵衛、そして福岡藩初代藩主となる官兵衛の息子・黒田長政であると言えます。そうして、官兵衛以降、約270年続いた福岡における黒田藩が築いた体制や人財育成が、金子堅太郎や団琢磨など、明治中期の日本を支える人財をつくり出します。またそのことが、九州大学の誘致や八幡製鉄所の設置など、九州や福岡のさらなる基盤整備へとつながります。
ここでは、福岡の歴史を、「黒田藩以前の福岡(官兵衛以前の福岡)」と「黒田藩以後の福岡(官兵衛以後の福岡)」に分けて、全体像を垣間見ることにします。