官兵衛・長政親子が福岡市の基礎確立
“軍師・官兵衛”こと、黒田官兵衛(黒田孝高・黒田如水)と福岡とのつながりは、1587年にまで遡ります。戦乱により衰退する博多の復興プランの立案を豊臣秀吉は官兵衛にまかせました。この復興プランこそが、「太閤町割」のことです。商人の町・博多は、数々の「豪商」と呼ばれる大商人の台頭とともに活性化し、衰退から復活しました。
1600年の関ヶ原の戦いが東軍の勝利であっけなく幕切れし、功労者となった官兵衛の息子・黒田長政は徳川家康より褒美として筑前の約52万石を与えられます。そして、その翌年の1601年から父親である官兵衛とともに「福岡城」の建設を開始します。
福岡城の建設予定地は、もともと福崎と呼ばれていましたが、官兵衛は黒田家に縁のある備前の福岡村から名前をとり、この土地を『福岡』と名付けます。
また、那珂川より西に位置する福岡に福岡城が建設されたことにより、商人の町・博多と武士の町・福岡という対照的な2つの町で、1つの都市圏が形成されます。
こうして、官兵衛と長政という親子により、現在の福岡市の基礎が確立されていきます。
黒田藩による人財育成
黒田家の統治が続き、9代藩主黒田斉隆(なりたか)は、藩の将来を担う人材育成のために藩校設立を命じ、1784年(天明4)に「修猷館」(別名東学問稽古所・初代館長は竹田定良(たけださだよし))と「甘棠館(かんとうかん)」(別名西学問稽古所・初代館長は亀井南冥(かめいなんめい))が創設されました。藩校として古くはありませんが、2つの藩校が同時に設立されるのは極めて珍しい例でした。
修猷館では朱子学、甘棠館では徂徠(そらい)学が講じられ、武士だけでなく町民も学ぶことができました。その後、1798年(寛政10)に甘棠館が火災で焼失して閉校となり、藩校は修猷館のみとなりました。
創立以来230年、現在は修猷館高校として多くの優秀な若者を輩出し、その歴史が今も受け継がれています。
また、黒田藩最後の藩主であり、明治維新後、そのまま藩知事となった第11代藩主・黒田長溥(ながひろ)は、明治になってからも、旧藩の俊才をアメリカやヨーロッパへ留学させ、金子堅太郎、団琢磨、栗野慎一郎など、明治中期の日本に影響を与える人物らを育てています。
なお、政府の要職を歴任し、日本の政治に影響力を持ち続けた金子は、八幡製鉄所の設置や九州大学の誘致に大きな影響を及ぼしたことがわかっています。
金子は1916年(大正5)に『黒田如水伝』を執筆しています。その序文に「(自分は)黒田家にどれだけお世話になったかわからない」と記しているのを見ても、福岡の近代化には、官兵衛から続く”黒田藩のDNA”が色濃く反映していることがわかります。
㊤写真=黒田官兵衛と息子・長政によって築かれた「福岡城」 ㊦写真=黒田藩の藩校・修猷館をルーツとする「修猷館高校」