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福岡ならではの、金子堅太郎との“濃い”時間をつくる。

九州大学や八幡製鉄所の「福岡」誘致の立役者として知られ、明治政府にも影響力を及ぼし続けた金子堅太郎。実力のある政治家という一面を持ちながらも、金子堅太郎という人物を知れば知るほど、「黒田藩の忠僕」という本質が、常に金子を動かしてきたということを知ることができます。

金子は福岡藩藩士の息子として、現在の福岡市城南区鳥飼のあたりで生まれました。ただし、若くして父親を失い、家督を相続するも士籍を失い、銃手組に編入されるなど、苦労を余儀なくされます。しかしながら、当時の福岡藩藩校であった「修猷館」での成績が優秀であったため、永代士分を与えられ、秋月藩や東京への遊学を命じられます。

さらに、1871(明治4)年には、第12代福岡藩主・黒田長知(ながとも)の随行員となり、アメリカに留学したことが、金子の素質を開花させることになります。

まずは英語力を培うため、ボストンの小学校から出発し、最終的には、ハーバード大学で法学学位を取得します。

後に、伊藤内閣で司法大臣を務めたり、枢密顧問官に任ぜられるなど、日本における司法や憲法の大御所として強い存在感を発揮していたのも、こうした金子のアメリカ留学に起因していると言っても過言ではないでしょう。

また、アメリカでの知人も多いことから、アメリカとの仲介役としてもその力を発揮し続けました。その一つに、セオドア・ルーズベルト大統領と学生時代に面識があったことから、日露戦争の開戦の際には、アメリカの世論がロシア寄りにならないよう、ルーズベルト大統領に頻繁に接触し、全米各地で講演を行うなど、アメリカがロシア側に付くことを食い止めたことは有名です。

金子の出生した場所は、今はマンションが建てられているため、出生場所に建てられていた碑は現在、鳥飼にある「埴安神社」(はにやすじんじゃ)の敷地内にあります。

なお、鳥飼のすぐ近くの六本松には、2009年まで、九州大学の教養部があった「六本松キャンパス」がありましたが、キャンパス跡地は現在、福岡高等裁判所や福岡地方検察庁など。司法関係の施設が立ち並ぶ場所となっています。その一角の中には「九州大学法科大学院(=ロースクール)」もあります。

司法関係の施設が集まり、なおかつ金子が誘致に尽力した九州大学の法学関係の施設もあるなど、なにか不思議な縁を感じずにはおれません。

一方、直接的には九州大学と関係があるわけではありませんが、今では福岡市の名所ともなりつつある「福岡市科学館」も、この六本松キャンパス跡地に建てられたもので、九州大学卒業生で宇宙飛行士の若田光一氏が名誉館長を務めています。

また、鳥飼や六本松から少し離れた場所にありますが、福岡市早良区西新に福岡藩藩校の流れを汲み、現在も福岡有数の公立進学校と知られる「修猷館高校」があります。同校を、公立高校として再興するために尽力した人物が、まさに金子でした。

同校の記念館には、金子の書なども展示されており、一般公開の日にはそれらを見に行くことができます。

近代国家としての日本の礎を築いた人物であり、「黒田如水伝」(※黒田如水は黒田官兵衛の別名)を執筆するなど、生涯、黒田藩への恩義を忘れることなく、福岡に永遠の繁栄をもたらそうと尽力した金子堅太郎。福岡市の鳥飼や六本松、また、早良区西新にある修猷館高校などは、金子のルーツや業績など、集約された金子の半生を教えてくれる場所でもあります。

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