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島井 宗室(しまい そうしつ)

数百年にわたり、“商人の町”を形成してきた福岡「博多(はかた)」。とくに、織田信長と豊臣秀吉の時代に、商人の町として一気に成熟したと言われます。

その中心的な役割を果たした博多商人に、「島井宗室」がいます。

1539(天文8)年、安土桃山時代に生まれ、同じ時期に活躍した神屋宗湛(かみや・そうたん)、大賀宗九(おおが・そうく)とともに、この3人の博多商人は『博多の三傑』と呼ばれました。

“商人”とはいえ、この当時の商人は、現代とは比べ物にならないほど、不安定な土台の上に成り立っていました。具体的には、憲法や法律が存在しない時代においては、将軍や藩主が法律の役割まで担うため、商人としての財力や基盤を築いたとしても、それらを一気に失う可能性があったということです。

ちなみに、当時、九州全体に影響を及ぼしていた大友宗麟によって海外との貿易を許されていた島井宗室は、蓄えた財力をもとに、時の権力者であった織田信長に近づいています。

当時は、“時の権力者”を敵に回しては、財力だけではなく、命までも脅かされる危険性が高かったからです。

歴史の授業などではほとんど聞くことがない“裏話”として、織田信長が明智光秀の謀反によりその命を落とすことになった「本能寺の変」のその日、その場所に、島井宗室と神屋宗湛の2人もいました。

本能寺で信長と謁見し、そのまま本能寺に宿泊し、日本を歴史を変えた本能寺の変に巻き込まれてしまったのです。その際、島井宗室は燃える本能寺から脱出する際に空海直筆の『千字文』を、神屋宗湛は牧谿の『遠浦帰帆図』(現・重要文化財)を持ち出したところに、博多商人の執念を感じさせられます。

現在『千字文』は博多の東長寺に、『遠浦帰帆図』は京都国立博物館に収められています。

時の権力者が豊臣秀吉に移ろうとしている時も、いち早く、秀吉の九州征伐を財政面でもサポートするなど、秀吉の時代を見据えた“投資”を怠ることはありませんでした。

しかしながら、秀吉による朝鮮半島への侵攻には異を唱え、小西行長らと協力し、李氏朝鮮国王との間で戦争回避を画策しています。またそのことで、秀吉の怒りを買い、蟄居を命じられていた時期もありました。

そのように、時の権力者らとも交流・交渉しながら、博多商人を代表する1人として、その名を全国にも知られていた宗室でしたが、私生活は驚くほど質素で倹約家だったと言われています。そして、宗室が残した「17条の遺訓」の中の最初の1条には、商人がもっとも大事にしなけらばらないことに、“誠実さ”を掲げています。

豊臣から徳川の時代に移り、石田三成と関係の深かった宗室は徳川家康に冷遇されます。そうした状況下でも、黒田藩には福岡城の築城など寄付を惜しまなかったと言われます。織田、豊臣、徳川という激動の時代を商人として生きてきた島井宗室は、1615(元和1)年、77歳でその生涯を終えます。

その時々を冷静に見つめ、必要な時は“時の権力者”に会いながら、大胆に投資し、私生活では倹約に努め、誠実さを貫く。

島井宗室らを通し、時代をリードし、時には、時代に逆らいながら激動の時代を生き抜いた『博多商人』の気概や生き方を、現代に生きる私たちはもっと研究していく必要がありそうです。

(島井宗室の言葉)
(第一条)生きている間は、貞節な心を持ち、律儀であることは言うまでもなく、両親、宗怡夫妻、兄弟、親戚に孝行をし、知人に対しても、また寄合においても、相手を敬い、礼儀正しくすること。無礼な振る舞いは決してしてはならない。嘘をついてはならない。たとえ人から伝え聞いたことであっても、嘘に似たことも言ってはならない。総じて口やかましい人は、他人から嫌われるものであり、自分のためにならない。自分が見たり聞いたりしたことであっても、後々の証拠となりそうなことは、他人から聞かれても答えてはならない。人の悪口にも耳を貸してはならない。
  (吉川弘文館出版「島井宗室」より17条の遺訓の原文を現代文に翻訳)
<関連する場所>
博多べい
崇福寺

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